あの「事件」から数年が経った。
美代吉は多くの芸者衆から「姉さん」と慕われる存在になっていた。三味線の腕も色気も申し分なく、贔屓も多い。
「菊のバッチ」の座敷にも数え切れないほど上がり、客のあしらいも上手くなった。
ただ、あの人がいる座敷に上がる時は、いまだに少女のような心が蘇る。
すっかり花街の女になりはてた自分に、そんな気持ちが残っていることがうれしかった。
あの人も随分偉くなり、お付きの人や同じ座敷の客に「大臣」と呼ばれる時もあった。
しかし、座敷でのびのびとくつろぎ、美代吉の三味線に聞き入っているのは、昔と変わらない「純さん」だ。
二人の間に特別な何かがあるわけではなかった。
少しばかり三味線が上手い芸者と、贔屓にしてくれる客。それだけだ。
だから美代吉も、少女のような恋心を抱き続けられたのだと思う。だが、正直に言えばそれは物足りなくもあった。
彼は魅力的な男だった。そして美代吉は女だ。
今のあの人なら多少無理なことをしても、この界隈でとがめる人間はいないだろう。
何より美代吉自信がそれを望み、何をされても許す気でいた。
しかし、彼はそんなそぶりすら見せない。チラチラと漏れ聞く噂もあったが、心を許すまでの人もいないようだ。
昔の傷が痛手になっているのだろうか?
そう考え、もう何年も前に死んだ女を恨んでみたりもした。
そんな時は自分が隠し持つ女の醜さを、露天の見世物のように目の前に広げられているように思えた。

その日、美代吉は荒れていた。呼ばれた座敷の客があまりにもひどかったのだ。
その客は芸者と遊女の区別もつかない野暮だった。遊び方も知らないくせにやたらと札びらを切り、
「金ならいくらでもある」と言わんばかりに芸者たちに迫った。
「そんなに懐が重くてお困りなら、少し軽くして差し上げましょう。」
美代吉は仲居にその料亭で一番高い酒を頼み、ぐいぐいと煽った。空になった銚子が何本も畳に転がる。
最初は面白がっていた客も、美代吉の杯が重なるうちにみるみる顔が青くなった。
驚いて見ていた妹分の芸者が、見かねて止めに入った。
「姉さん、もうやめておくんなさい。これ以上は毒です。」
「そうかい?あたしゃまだいけるけどね。でもお前の顔を立てて、これで仕舞いにしようか。」
美代吉は杯に残った酒を旨そうに煽ると、ふうっと息をついた。
目を丸くしてぼんやりと突っ立っている客を一瞥し、
「どうもご馳走様でした。少し風に当たってきますので、ごめんなさいまし。」と、座敷を出てしまった。
実はこの座興には仕掛けがあった。あらかじめ仲居に言い含め、半分以上の銚子には水を入れて運ばせたのだ。
それでも本当らしく見せるため、相当な量の酒を飲んだことは間違いない。水を沢山飲んだせいで、腹具合もおかしかった。
美代吉はふらつく足で板張りの廊下を歩き、手洗いに入った。

用を済ませて手洗いを出ても、あの座敷に戻る気にはなれなかった。
美代吉は客が待つ座敷とは反対に歩き出した。その先にはこの料亭自慢の庭がある。そこで酔いを覚ますのは名案に思えた。
おぼつかない足取りでふらふらと庭を歩いていくと、池のほとりに腰掛けるのに丁度良い庭石があった。
そこは常夜灯の明かりからも陰になっていて、空には月もない。人目をさけて逢引するのに良さそうだった。
しかし、美代吉は一人だ。こんな所であの人としっぽりと…と思ってみても、空しいばかり。
ほうっとため息をつき、遠くの座敷から聞こえる「野球拳」のにぎやかな声を聞きながら、扇子であおいで酔いを醒ます。
しばらくすると、美代吉耳に庭の飛び石を踏む音が聞こえた。誰かが来る。
人の気配のする方を見ると、夜目にも白いワイシャツが闇に浮きあがった見えた。その人が驚いたように口をきいた。
「…美代吉?」
「純さん…。」
降って湧いたような幸運、なのに美代吉は自分でも不思議なほど驚かなかった。酔っているせいかもしれない。
「いいかな?」と言って彼は美代吉の隣に腰掛けた。
さっきまで自分の空想していたことが本当になっている。本物の純さんが隣にいる。しかし、やはり美代吉は驚かない。
酔いのせいで、全ては夢の中の出来事のように思えた。夢なら願いがかなっても不思議じゃない…そう思った。
ネクタイをはずし、ワイシャツの襟を開いた純さんは、ずいぶん若々しく見えた。まるで学生だ。
人に「大臣」とまで呼ばれる人なのに、と思うとおかしくなり、美代吉はくすりと笑った。
「なにがおかしい?」
「いえ…。ネクタイはどうされんした?」
「ああ…。」純さんは恥ずかしそうに頭をかいた。
「いやー、野球拳で取られちゃってさ。今逃げてきたんだよ。」
「まあ。」
照れくさそうに、少年のように笑う彼を、美代吉はうっとりと見つめた。
「山崎さんはズボンまで取られてたよ。でもなんであの人、メガネより先にズボン脱ぐんだろうな?」
純さんが話す山崎の様子を思い浮かべ、美代吉はくすくすと笑った。純さんもふふふ、と笑う。
ひとしきり笑ったあと、二人の周りはしん…と静かになった。

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