「香月屋の美代吉さんですね?」
突然声をかけられ、和服姿の女は振り向いた。その名で呼ばれたのは随分久しぶりだった。
忘れかけていた、といってもいい。振り向いた先にいたのは見知らぬ男だった。
軽く眉をひそめ、「何か?」と答える。
男は相手の不審気な様子にも慣れているらしく、ひるむことなく名刺を差し出した。
印刷されている身分は大手週刊誌の記者。女は「ああ…。」という顔をした。
「小泉総理、ご存知ですよね?」
探るような質問に、女は何でもないように答える。
「ええ。テレビでよく拝見していますから。」
「そうでなくて…。」
男は「まいったな」という風に頭をかいた。
「あなたが芸者をされていた頃、随分贔屓にされたとか。」
和服の女は困ったように笑い、「さあ…。」と言った。
言いながら、昔のことを思い出していた。

「今夜は『菊のバッチ』のお座敷だよ。」
女将に言われ、美代吉はいそいそと仕度をはじめた。あの人に会えるかもしれない…と思うと心が浮き立つ。
お座敷に上がりはじめた頃は、「菊のバッチ」の席は憂鬱だった。
バッチにものを言わせ、やたらいばりちらす客。
芸などろくに見もしないで芸者を追いまわし、酒の勢いで体をまさぐるようになぜる客。
姉さんたちは「ああいう人たちはいつも回りに押さえつけられてるから」と言っていたが、
美代吉はどうにも我慢できなかった。芸者になぞなるのではなかった、とも思った。
しかし、そんな客の中にあの人がいた。おだやかに笑いながら杯を傾け、
「君、筋がいいね。もう一曲聞かせてくれないか。」
と、美代吉のまだ拙い三味線を、目を閉じながら気持ちよさそうに聞いてくれた。
それからその客の座敷に上がるのを心待ちにするようになった。自分でも現金なものだ、と思う。
化粧をしようと水白粉の刷毛を手に取ると、それがついっと取り上げられた。
振り向くと、艶やかな女が悪戯っぽく笑っていた。先輩芸者の小菊だ。
「馬鹿にうれしそうじゃないか。」
「そんなこと…。」
「ははん。」
「何よ。」
「『純さん』だろ。」
まだ化粧をしない美代吉の頬がぽっと赤らんだ。「違うわ。」と言ってみてもあとの祭りだ。
「本当にあんたはわかりやすい子だねえ。」
笑いながら小菊は美代吉の首筋に白粉を塗ってやる。ひやりとした感触に、美代吉の少し火照った身がすくんだ。そこへ
「でもあの人は駄目だよ。」と、妙に真面目な小菊の声。
「どうして?」
「すごくモテるしね。それに…。」
「それに…何よ?」
自分でも驚くほどムキになっていた。無邪気に頬を膨らませる美代吉を、
「すぐにわかるさ。」と、小菊は笑いながらいなした。

彼が他の置屋の芸者と「良い仲」だという噂が、間もなく美代吉の耳にも届いた。
相手の芸者は大層な売れっ妓で、「菊のバッチ」の客の中にも大勢の贔屓がいるという。
「わたしだったら、純さん一人に尽くすのに…。」
かなわぬことを考え、美代吉はため息をつく。褒められた三味線の稽古にも身が入らない。
ふてくされ、思わず三味線の撥(ばち)を放り投げる。その瞬間、
「美代吉!」と鋭い声が飛んだ。キャッと身をすくませる。女将の声だ。
「三味線は芸者の命だよ!撥も同じさ。それをほうるなんざ、どういう了見なんだい!?」
美代吉の前に座した女将は、鬼のような顔をしている。激しく叱責され、美代吉はあわてて手をついた。
「お母さん、堪忍してください。もう二度としませんから。」
女将の言うことはもっともだ。竹の物差しで手を打たれても文句は言えない。
しかし美代吉にとって一番つらいのは、お座敷に上げてもらえなくなることだった。
あの人に会えなくなる…。美代吉は畳に額をすりつけんばかりにして謝った。
美代吉の必死な様子に、「今度だけだよ。」と女将も角を収めた。
「だけどお前、近頃おかしいよ。何ぼーっとしてたんだい?」
さっきとはうって変わった心配そうな声。美代吉は答えられない。
「男かい?」
男、といえば確かにそうだ。でもあの人は自分のこんな気持ちも知らないだろう。
「ま、いいさ。でも本気になると泣きを見るのはこっちだよ。男なんてみんな同じさ。」
「そんな…そんなことないです!」
ぱっと顔を上げ、女将を見据える。叱られた、ということも忘れていた。
女将は美代吉の目を見た。強い目だ。女の目だ。この子がこんな目をするようになるとは…。
芸者衆に「母さん」と慕われる女は、母のような笑みを浮かべて言った。
「あの人は近頃には珍しい、芸の分かるお人だよ。恥ずかしくないようにせいぜい稽古するんだね。」
「…はい!」
美代吉はまた頭を下げた。やはり気づかれている。自分の顔が耳まで赤くなっているのが分かった。
女将はとっくに立ち去ったのに、美代吉はしばらく顔を上げられなかった。

ある日、また美代吉の耳に噂が届いた。悲しい噂だった。
あの人と「良い仲」だった芸者が死んだという。しかも、自分で命を断ったと。
人の聞こえをはばかって、通夜にも葬儀にも、「菊のバッチ」のお客は誰も来なかったらしい。
いくら売れっ妓といっても、死んでしまえばそんなものだ。
花街に生きた女の悲しい末路。美代吉には女将の言葉が思い出された。
「泣きをみるのはこっちだよ。」
死んだ女のため、というよりも女の境遇に自分を重ね、美代吉は悔しさに泣いた。
「男なんてみんな同じ。」そうなのだろうか?おだやかに笑うあの人も…。
しかし、花街の風はまたすぐに別の噂を運んできた。
葬儀にあの人が来たという。女の死に顔を見て涙を流し、声をあげて泣いた、と。
美代吉は恋焦がれた人が実のある人と知ってうれしかった。そして非業の死を遂げたはずの女をうらやましく思った。
たとえ癒えない傷跡としてでも、あの人の心に住み着くことができたのだ。
「純さん…。」
口に乗せた途端に消えるその言葉を、美代吉は特別な思いを込めてつぶやいた。

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