彼は、煙草に火をつけた。
立ちのぼる煙のゆくえは、薄暗くした部屋の中で、杳として知れなかった。
「この国の未来のようだな」と呟いてみて、彼は、大きく頭を振った。
ソファから身を起こそうとして、思わず彼は唸った。
先日からの激務で、その身体は鉛のように重く感じられていた。
(皮肉なもんだな、痩せたくせに、重いなんて…)自嘲気味に笑おうとして、彼は、顔をこわばらせた。床がぐらぐらと揺れて、部屋中が回転しているようで、姿勢を維持できなかったからだ。
眩暈であった。
過酷なスケジュール、不眠、さまざまな方面からの重圧、ストレス。「死にたくなった」と冗談めかして口にしたこともあった。禁煙の誓いを破って、吸った煙草のせいで、激しい眩暈に襲われながら、彼はやっとの思いで受話器を取り上げた。
「…小泉だ…すぐに来てくれ…」
その声は、果たして声になっていただろうか…。
彼の意識は次第に遠のいていった。
床に崩れるように、彼は深い眠りに落ちていた。
受話器の向こうの相手は、それを知る由もない。
深い、深い、眠りの中で、ライオンは夢を見ることもほとんどなかった。
孤独な眠りの中で、ごくまれに誰かの面影が見えることもあった。
だが、その人が誰なのか、朝になるとまったく思い出せないのだった。
ただ、その人への懐かしさだけが、残っているのだった。
そんな朝は、その面影を大切に心の片隅にしまって、彼は大勢の人間の前で吠えた。
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ある朝、電話が鳴った。
双子のどちらかが、僕を心配して掛けてきたのだ。
「ねえ、あんた、最近働きすぎだよ。分かってる?」
双子の一人の声がきこえた。受話器の向こうでは、もう一人の声で、そうだよ、休みなよ、と騒ぐ声がする。
僕は、それを聞きながら、何だかとても元気が出てきた。
「いや、君たちの心配は、本当にうれしい。」
「じゃあ、一緒にダムにでも、釣りに行かない?」
双子の声のトーンが上がった。やはりもう一人の釣りだー、釣りいくぞー、と騒ぐ声が聞こえてきた。
「誘ってくれて、ありがとう。でもね。今は行けないんだ。ごめん。」
「…やらなきゃならない仕事があるんだね?」
すこし哀しそうな声で彼は尋ねた。
双子たちは、いつも僕にパワーをくれていて、僕も彼らのために何かしてやりたいといつも考えているのに、
今はたかが休日の釣りにさえ一緒にいってやれない。そう思うと、また疲れがでそうだった。黙ったままの僕に、もう一度彼は言った。
「いいよ、あんたがやりたい仕事なんだったら、きっちり完璧に仕上げてしまってよ。」
「…釣りは?」
「いつでもできるさ。また、いつか。…とにかく、元気で。…僕らのことは平気だよ。ホラ、僕ら双子だから、寂しくなんかないし、また、こうやって電話ででも話せるしね。」
「…君たちの淹れてくれたコーヒー、うまかったな。また、淹れてくれるかな。
それから、パスタ、君たちの作ってくれたのと同じ味に、なかなかめぐり合えなくてね。
…でも、結構近い味をだす店があってね。ちょくちょく通ってる。」
「ああ、それ、ニュースで見たよ。いつも見てる。コーヒーね、今度の選挙の後には、とびきりうまいのを淹れてあげるよ。ほんとだよ。」
「…そう。…ありがとう。」
彼らの声を聴いていると、本当に僕らは遠くなってしまったんだな、と痛いほど分かった。
お互いに、それを分かっていて、なお、今までみたいに振舞っている、そのことが、うれしくて、そして、哀しかった。
いつまでも、話していたかったが、もう時間がなかった。
「またね。」と、双子たちは言った。
「また。」と応えて、僕は受話器を静かに置いた。
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部屋には、完全な静けさだけがあった。
いつも一緒にいたときには、あんなにうるさかった双子たちの、ステレオみたいなおしゃべりを思い出していたら、僕は不覚にも泣いていた。
涙がとめどなく流れて、嗚咽が止まらなかった。こんな泣き方をしたのは、いつ以来のことだろう?
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しばらく僕は一人きりの部屋で泣いていた。
ノックが聞こえるまで、二十八分ほどあるはずだった。いまの僕の暮らしは、分刻みで動いているのだ。
それまでには、涙も乾くだろう。また、大勢の人の前で、夢も語れるだろう。
きっと、できるはずだ。
ネクタイを締めて、ジャケットを羽織ると、双子たちが僕を囃したててからかう声が聞こえたような気がして、僕は思わず笑った。
「カッコよくなんかないの、知ってるんだろ、おい。」彼らに聞こえるように、大きな声で僕は言った。
鏡に映った僕自身は、今日も大胆で快活で、extra-ordinaryな男である。そう言い聞かせながら。
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